卓球をやっている者にとって、中国の卓球というのはあこがれであり、誰しも一度でいいから中国の人と卓球をやっ

てみたいという夢がある。トップ選手なら国際大会等で中国選手と試合をする機会も数多くあると思うが、一般の卓

球愛好家にとっては夢のまた夢の世界で、そんなチャンスはほとんどないといえる。自分自身も卓球は大学で初めて

ラケットを握り、会社に入っても卓球クラブに所属して細々と卓球を楽しむ程度のレベルであったが、幸運にも、イ

ンターライン卓球大会という国際大会があって、外国人と卓球をやる機会には恵まれていた。


このインターライン卓球大会というのは、愛称はWOFIAWings of Friendship Inter-Airlines)といって、世界各国の航

空会社間で親善を目的として行われている卓球大会のことである。
1980年にマレーシア航空の提唱によって第1回大

会がマレーシアのゲンチンハイランドで開催され、第
2回はルフトハンザ主催でハンブルク、第3回はエアフランス主

催でパリにて開催された後、第
4回大会が198311月にJAL/ANA共同主催で東京にて開催されることになっていた。

当時、東京大会組織委員会のマネジャーを担当していたが、東京大会を盛り上げるために、開催にあたって、中国唯

一の国際航空会社である中国民航に対して参加を呼び掛けてはどうかとのアイデアが浮かんできた。


早速、どうやって声をかけていったらよいか検討した結果、当時、日中の航空会社間で頻繁に行われていた航空交渉

の宴席の場を借りることにした。日本側代表団の一人(当時の自分の職場の上司)に
198311月の開催が決まってい

WOFIA大会への参加の勧誘をお願いしたのは、1年前の198211月のことであった。代表団が交渉から戻った時、

中国側は強い関心を持っている旨の報告があった。それから
1か月もしないうちに、中国民航の李樹藩社長から当社

社長宛に親書が届いた。その内容は、参加勧誘のお礼と参加してみたい旨の意思表示、また、それに先立ち当社の卓

球チームを中国に招待したいというものであった。当時の中国民航の社長は航空局長を兼ねていたので、まさに中国

航空界のトップであり、その親書は極めて重要な意味を持っていた。中国民航がこのようなスポーツ交流を行うのは

全く初めてのことで、開放政策に舵を切ろうとしていたタイミングにうまく合ったものと思われる。
 

中国側が当社チームの中国招待を提案した背景は、一般的に中国の卓球レベルが高いといっても、彼らにとって、

WOFIA
の卓球レベルが不明であったため、当社チームのレベルをチェックしたかったものと思われる。オリンピック

でもよく言われるが、中国にとって勝ち負けは重要な意味を持ち、参加するかぎりお家芸の卓球で負けるわけにはい

かないのである。
 関係者と協議の結果、中国への遠征は行うが、招待自体は断ることとした。招待するということは

、飛行機代、ホテル代、飲食代等すべての経費を中国側が丸抱えするということを意味しており、逆に、この招待を

受けたら、必ずお返しの招待をしなければならないということである。そんなことはとても無理な相談であり、飛行

機代、ホテル代等基本的な費用は自前で賄うこととした。但し、中国の国内線の飛行機は、日本では手配できないこ

ともあって、北京→杭州→上海の
2便について、彼らのお世話になった。 

中国への遠征を正式に決めたのは、12月下旬だったと思うが、それからの詳細な詰めがなかなか大変であった。まず

、いつ、どの都市に訪問するか、何人規模か、飛行機やホテルの手配をどうするか、相手がある話なので、一つ一つ

詰めていく作業は想像を絶するものがあった。今であれば、メールや電話でいくらでもコミュニケーションが取れる

が、当時は、便利な
e-mailもなければ、国際電話もすべて中国側に盗聴されていた時代で、基本的には、当社のペキ

ン支店経由と当時航空会社間でのやりとりに使っていたテレタイプによるコミュニケーションだけであった。当時、

自分自身本社の国際旅客部、インターライングループに所属しており、インターラインとのやりとりに慣れていたこ

とは幸いであった。
 

中国側は、訪問先として、北京・上海・杭州か北京・旅順・大連の2案を提案してきたが、結果的には、当時上海線

もあったので、馴染みのある北京・上海・杭州を訪問することにした。
1月以降も航空交渉の日中協議は継続的に行

われていたが、交渉の場でも、いつも友好試合のことが話題になっていたようである。代表団が帰国するたびに、進

捗状況について、「航空交渉はなかなか先に進まないが、友好試合の件はとんとん拍子に話が進む」という報告を受

けていた。
 北京支店の総務責任者の話では、中国民航の本社に航空交渉の件で訪問する時は、1階の接客の部屋が決

まっており、それより中に入れないし、入ったこともなかったが、こと友好試合の件の打ち合わせで来たと言うと上

階の別室に案内されたとのことである。中国では、各担当の責任分担が明確であり、打ち合わせに行っても交渉の件

は上にあげてあるという一点張りで拉致があかないのが普通だそうであるが、友好試合の話になると全く別扱いであ

ったようである。
 

遠征時期については、中国側からとにかく早くしてほしいとの要請が航空交渉のたびにあった。いろいろなことを煮

詰める必要があるので、どうしても遅れがちであったが、中国側の要請を受けて、最終的には、
1983619日から

となり、最初に話を持ち出してから、約
7か月で実現したことになる。後でわかったことであるが、中国側が早い実

施にこだわったのは、友好試合に備えて、
2月頃から、中国全土の民航社員のなかで、卓球の上手な人15人をピック

アップし、職場から離れさせ、コーチを付けて北京で合宿生活を始めたからであった。彼らをそんなに長く職場から

離れさせるわけにはいかない事情があったようである。各選手とも、職場を離れて合宿生活に入り、もともと上手な

上に、専任のコーチが付いて、毎日卓球の練習をしていたのだから、結果は火を見るよりも明らかであった。
 

我がチームは、仕事を終えてから、週に1回の練習を行うというよくある普通の会社のクラブであるので、実力はた

かが知れているが、遠征にあたって、卓球部の部長を団長、会社の勤労部厚生担当課長を副団長とし、選手として男


6
人、女4人の合計12人から成る代表団を作った。女性4人は全員客室乗務員として、花を添えた。このようなスポー

ツ交流は会社にとっても初めてのことであったが、副団長として人を出してもらい、出張扱いに近い形で、飛行機搭

乗の便宜もはかってもらえたのは、大変ラッキーであった。
 


619日、中国遠征という初めての経験に期待と不安が入り混じる中、我々を乗せた飛行機が北京空港に到着した。

到着後、赤じゅうたんを通り、直接
VIP用の貴賓室に招かれた。このようなVIP待遇は受けたこともなく、皆感激して

いたが、緊張で身が引き締まる思いであった。そこでは、中国民航の社長はじめ、幹部の人達が我々を歓迎してくれ

た。選手団のメンバーも、合宿所から駆けつけてくれ、初顔合わせをすることになったが、彼らの輝く目と素朴な笑

顔が実に印象的であった。


 

友好試合は、621日の中国民航本社での正式な試合に加え、北京管理局チームとの空港での友好試合、杭州では、

運航乗務員(パイロット)と友好試合、上海では、上海チームとの友好試合も行った。民航本社での友好試合は、最上階

の大ホールのようなところで行ったが、「熱烈歓迎日航卓球代表団」の横断幕が掲げられ、掲示板にも多数のポスタ

ーが張られていた。中国側は、社長はじめ幹部の役員に加え、職場で行われたためか、観客席は数百人の民航スタッ

フでぎっしり。こちらも、我々
12人に代表団の他に、北京支店長はじめ支店のスタッフ、家族、ステイ中の乗務員、

香港から広報担当課長も取材で加わった。
 

緊張の内に、開会式が行われ、いよいよ試合開始。責任を背負い自分自身が一番バッター役を勤めた。1球目から中

国独特の投げ上げサービスにビックリ。今では、一流選手も時々行うが、当時はTVで見たことはあっても、日本で

は珍しく、もちろんそんなサービスは受けたこともなかった。もともと上手なのに強化合宿をやってきた民航チーム

と普通の会社同好会チームとでは実力の差は歴然で、結果は、シングルスが男子
18敗、女子05敗、混合ダブルス

13敗であった。(この2勝は友好の印?)民航の圧倒的勝利に終わった友好試合であったが、我々は決して落ち

込んではいなかった。むしろ、そこには清々しささえあった。負けても全力を出し切った充実感があった。言葉は通

じなくても、卓球を通じて同じ苦しみ、喜びのわかりあえる仲間として、同じ汗を流した意義は大きい。
 

夜は、歓迎宴、答礼宴とパーティの連続。中国のパーティは、マオタイの乾杯(かんぺい)で始まり、マオタイの乾

杯(かんぺい)で終わる。とにかく、しつこいほど酒を勧められる。夜の方は、日頃鍛えたお酒の腕で、ほぼ互角の

勝負。言葉の壁なんか何のそので、あちこちで筆談が始まる。とにかく漢字で書けば、びっくりするほど通じる。民

航の女性は多くは客室乗務員ということもあって、カタコトの英語もOK。服装は、全体的には地味だが、女性のほ

とんどはスカートで、中国でも進んでいる印象。お化粧をしていなくても、とても美人が多い。我が女性軍も、和服

姿を披露して、民航の男性にモテモテであった。
 びっくりしたのは、当時、中国では独身の女性と独身の男性とのツ

ーショット写真は、タブーということ。既婚男性とならツーショットもOKとのことで、中年組がニンマリ。乾杯が

進むにつれて、大芸能大会が始まる。日本側による当時中国で大流行していた「北国の春」「四季の歌」に「鉄腕ア

トム」「めだかの学校」と皆バカウケ。民航側も女性陣が美しい中国の歌を聞かせてくれた。
 

最初の友好試合が終った翌22日に民航の客室乗務員がアテンドしてくれて、明の十三陵と万里の長城への一日観光を

させてもらった。車の手配から観光、食事まですべて民航側のアレンジなので、安心して最高の気分で中国の壮大な

歴史を垣間見ることができた。中国への観光客はまだ限られており、北京の街並みもお世辞にも綺麗とは言えず、行

き交う人達の服装も人民服のようなものが多かったが、まさに変わりつつある時代であったようで、センスがあると

はとても言えないが、若い女性の原色の派手なスカート姿もちらちらと目についた。

 

ここで言い忘れていたが、民航には日本語ができる通訳の女性がいて、空港到着時から杭州、上海までずうっと同行

してくれた。彼女は、元客室乗務員で、その当時は民航の社長の秘書兼通訳を務め、今回の遠征にあたって、最初か

ら最後までお世話をしてもらった。現地での民航側とのやりとりはすべて彼女を通して行い、何のトラブルもなく、

スムーズに遠征を遂行することができたのはまさに彼女のお蔭である。彼女は、その後、日本での勤務も経験され、

現在も東京で中国旅行関係の仕事をされているが、いまだにお付き合いをさせてもらっている。
 


23日は、北京から杭州に飛行機で移動することになっていたが、出発前に空港にて、北京管理局のチームと友好試合

を行った。
21日の正式な友好試合は全中国から選りすぐりのメンバーであったが、その日は、空港で働いているメン

バーとの友好試合であり、結果も男子は
23敗、女子は14敗と負けたものの実力は接近していた。飛行機が見える

ところでの卓球の試合も貴重な体験となった。
 

北京から杭州まで民航の飛行機に初めて搭乗したが、なかなか快適なフライトを楽しむことができた。なぜ杭州が選

ばれたかというと西湖という有名な観光地を我々に楽しんでもらいたいという民航側の配慮とそこに大きな民航のパ

イロットの保養施設があったからと思われる。杭州では、保養に来ていたパイロット達とまさに友好の試合をするこ

とができた。試合は全てダブルスで行ったが、さすがこれは当方が
82敗で勝利をおさめることができた。彼らは卓

球をスポーツとしてやっているわけではなく、まさに温泉卓球のレベルであるが、それでもそれなりの実力があるの

には驚くばかりである。一応何とか勝つことができたので、翌日は気分よく、西湖の観光も楽しませてもらった。

 

杭州で2泊した後、25日に民航の飛行機で上海に移動した。上海空港でも到着時、貴賓室に案内され、熱烈な歓迎を

受けた。その日の夜は、民航の歓迎宴に招待され、民航の上海の幹部の人達も多数参加していた。普段、当社の上海

支店が窓口としている上海管理局のお堅いある役員が、楽しい雰囲気に酔いしれ、歌って踊り出すハプニングもあり

、支店長もビックリしていた。最後には、「レッツキス」のジェンカを全員で踊るなど、盛りに盛り上がり、双方の

選手、関係者がともに語らい、友好を深め合っている姿は、非常に印象的であった。支店長によれば、それまで管理

局のトップの人達と飲む機会など全く持てなかったが、この友好試合のお蔭で初めて一緒にお酒を飲み、交流を深め

ることができたと物凄く感謝されたことを今でも鮮明に覚えている。
 

26日に上海チームとの友好試合を行ったが、領事館はじめ、日本人学校の子供達や在上海の日本人の方も多数応援に

駆けつけてくれた。民航側は、北京での試合にも参加したメンバーが上海に戻り、何人かの新しいメンバーが加わっ

ていた。結果は、男子が
34敗、女子が23敗で惜敗した。混合ダブルスは、中国選手と日本選手がペアを組んで、

和気あいあいの雰囲気の中、最後の友好試合に花を添えた。試合当日の夜は、お礼と感謝の気持ちを込めて、こちら

が答礼宴を主催し、
9日間にわたる日中友好の親善試合の名残を惜しんだ。毎日、朝から晩までスケジュールがきち

んと決まっていたが、民航側の万全のサポート体制のもと、何のトラブルもなく、あっという間に過ぎた充実した
9

日間であった。
 

27日、北京から杭州、上海と長いようで短かった中国遠征も最後の日を迎えた。

上海の空港まで、選手、関係者が総出で見送りに来てくれた。我々も感謝の気持を込めて、ピンポン玉に名前の寄せ

書きをして、皆にプレゼントした。一人一人惜別の握手、さようなら、ありがとう。再見、謝謝。。。お互いに最後

の最後まで手を振り続けた。
 

今振り返れば、我々のような一般の卓球愛好家が中国の人達との夢のような友好交流を体験できたというのは、時代

がそうさせてくれた奇跡的なことであり、大変ラッキーであった。卓球を続けていてよかったという思いが今でも頭

をよぎる。今回の友好交流を経て、中国民航は
1983年のWOFIAインターライン卓球大会に初参加し、1987年の分割民

営化以降は、中国南方航空がそれを引き継ぎ、
2001年にバンクーバーで行われた最後の大会まで友好交流を旗印に毎

年参加し続けてくれた。あの時、自分が中国に声をかけていなければ、その後
20年間も続いた中国も入った航空会社

間の友好交流はありえなかったことを考えると感慨深いものがある。今回の卓球交流は、日中友好の小さな架け橋に

すぎないかも知れないが、この小さな輪からいっそう大きな輪ができたことは忘れられない思い出となっている。


                        中国民航との友好卓球交流YouTube

中国民航との卓球友好交流(回顧録)

中国民航本社にて

上海チーム選手と

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