1.東海道の元宿“品川宿”

  近世の宿場の任務の第一は運輸である。人馬で旅行者は荷物を次の宿まで送ることである(継立).品川宿の場合は江戸伝馬町から品川、品川から川崎である。品川宿から府内へは直接宛て先へ送り、他の街道へも直接、板橋、千住、内藤新宿(高井戸)へ継ぎ送った。江戸では牛車や大八車が許されたが街道では車は使わせなかった。

公用の旅行者に対して、幕府は1日に使用できる人馬の数と旅行目的、出発地と目的地を記した朱印状や証文を与えた。宿場は朱印状か証文を・`疋携行するものに対しては無償で人馬を提供しなければならなかった。公用の旅行には一定の場合に限られ、公家衆、京都へ御使、門跡などの旅のほか、品川東海寺の輪番住職や宇治の茶や備後の畳表などの将軍家の必要な品物も含まれていた。それ以外は駄賃を払って人馬を使用した。

武士が旅行する時に人馬が必要なときには駄賃はきめられた御定賃銭で使うことができ、出発前に日程を問屋場に示せば先触が出され宿ごとに人馬の準備をしておいた。御定賃銭は、変動があり、正徳元年(1711年)に道中奉行管轄の諸街道の賃銭を定めたが、これがその後の基準となり、物価騰貴などのときには増額が行なわれた。因みに正徳元年の江戸・品川間と品川・川崎間の賃銭は次のとおりである。

 

 本馬1

乗懸荷、人共

 軽尻馬1

  人足1

江戸まで

   94

94

61

47

川崎まで

   114

114

73

56

  人馬が運ぶ荷物には重量制限があった。しかし、大名・旗本が重量オーバーの荷物を運搬させ宿や助郷の人馬を苦しめたことから、家宝4年(1707)に東海道の品川、府中(駿府)、草津、中山道の板橋、洗馬の5宿に貫目改所を設けた。その後、千住(寛保3年)内藤新宿・甲府柳町(文政5年)、追分(中山道と北国街道の分岐、天保9年)にも設けられた。一般庶民や商人の運輸は問屋場へはかからず、駕籠かきや馬土に直接交渉し、相対で賃銭を決めて人馬を使用した。品川宿の問屋場は、南北品川宿の2ヵ所にあったが、たびたびの火災で焼失し、文政6年以降は南品川宿の1ヵ所であった。この問屋場は、問屋の家の一部をあてていたのではなく、独立した建物で、後に定められた貫目改所とが同一の建物となっていた。

  宿場の第2の役割は通信である。幕府公用の書状を逓送するために、昼夜を問わない急便もあったのでその人足(継飛脚)の用意も必要であった。各駅の公用状の取扱所を御状箱御継所といい、品川宿では南北名主の家で取り扱っていた。また大名の中で東海道では尾張藩と紀伊藩は国許と江戸や京、大阪間に通信連絡網をもっていた。大名飛脚といい、尾張では六郷村(現、大田区)に飛脚小屋があった。庶民の通信機関は町飛脚で、安永2(1773)には東海道の品川から大阪までの間に18ヵ所の取次所を設けられ、通信、送金、為替などが広範囲にたやすく行なわれていたのである。

2.本陣と旅籠屋

  宿場の第3の役割は、旅行者の休息や宿泊の施設を提供することで、それらを江戸時代では旅籠屋・木賃宿といった。旅人に食事を出す家を旅籠屋といい、宿泊だけの木賃(木銭)だけ払い自炊して食べる家を木賃宿といった。特に、大名などが休泊する所を本陣といった。本陣がふさがっているとき用いられるのが脇本陣である。大名は本陣に休泊するが、家臣は旅籠屋であった。品川宿の本陣は、はじめ南・北品川宿にあったが、南品川の本陣は早くなくなり、中期以降は北品川宿に1軒、脇本陣が3宿にいずれかに2軒となった。東海道53宿の本陣の総数は「宿村大概帳」によれば111軒で、箱根宿と浜松宿では6軒を数えた。平均2.1軒で、中山道・奥州道中の1.1軒、甲州道中の0.9に比べて約2倍であり、通行量の多さがわかる。

 寛政頃(1789-1800年)の品川宿の本陣を勤めたは鶴岡市郎右衛門であったが、度々火災に遭い、文化8年(1811)に類焼したときは地力で再建することができず、本陣退役を願い出たが、勤める者がなく、代官所が150両を貸付け、返済は3宿で75両を毎年拠出して本陣を維持していくことになった。市郎右衛門は15両を手当てに守役となった。文政期(1818-1829)になると、江戸に近いため品川宿や川崎宿では大通行の場合には宿泊より休息が多いうえに大名の旅籠銭倹約で茶屋(品川は釜屋、川崎は万年屋)にて休息をとり、半数におよぶ大名が本陣を使用しなくなったため、ますます本陣は窮乏し、代官自ら窮乏を建言したほどであった。

  さて、旅籠屋の宿泊料であるが、品川宿に泊まる大名によって異なり、加賀藩が東海道を通行したときは文化11年では上旅籠代1220文(北国街道200文)、天保11年(1840)には250文で、東海道は他街道よりも1割増しを支払っている。しかし、これを公用旅行で、一般の相対での旅籠代の相場はこの1.5倍以上であり、御用に指定された旅籠屋の損失は明らかで、品川宿では宿全体でその不足分を補填していた。

3.品川宿のなりわい

  品川宿の街並は南北に1940間(約2,145m)で、高輪町境から大井村境まで家並が続いていた。天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によれば、品川宿は家数1,561軒で東海道53次では、府中の3,673軒、大津の3,650軒、熱田の2,934軒、桑名の2,544軒、浜松の1.622軒、岡崎の1,565軒に次ぐ規模である。これらの宿が城下町や門前町、海陸の要所などの要素を含む宿場が多いなかで、品川宿は江戸に近いことが原因としてあげられる。品川宿の家数と人口は次表の様な変遷をみることができる。

 

享和2(1802

文政11(1828)

天保14(1843)

慶応2(1866)

  家  数

1,603

1,572

1,561

1,678

人口総数

6120人男3079

   女3041

6290人 男?

    女?

6890人男3272

   女3618

7554人男3293

   4261

  この65年間で人口が大きく増加している。また天保14年以降の男女比率をみた場合女性が非常に多い。品川宿が江戸近郊の一大遊興地であったためである。

 この頃の宿場の風景を示す店をあげると食売旅籠屋92軒、平旅籠屋19軒、水茶屋64軒、煮売渡世44軒、餅菓子屋16軒、蕎麦屋9軒などがあり、総数601軒のうち30%を食売旅籠屋、平旅籠屋、水茶屋で占めていた。江戸四宿の食売旅籠屋の数でも千住55軒、板橋52軒、新宿25軒に比べて段違いに多く、吉原と並び称されるに至った(平旅籠屋を一部含む)。

  次に、品川宿内の職人を見てみよう。多い順にあげると、大工46人、左官14人、髪結12人、桶職10人、屋根葦9人、建具職7人、仕立職5人、木具師3人、かざり師3人、石工3人、経師3人のほか木地物師、塗師、仏師、畳職、鍛冶職、船大工、三弦師、染物師、縫箔、瓦師と様々な職人がおり、江戸市中と変わらない構成であった。

江戸時代の品川宿  

                  江戸四宿特別展 (坂本道夫氏)より引用

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