2014年8月1日
WOFIA(Wings Of Friendship Inter-Airlines)インターライン卓球大会は、1980年にマレーシア航空の提唱により、第1回大会がマレーシアのゲンティンハイランドで開催され、1981年に第2回大会がルフトハンザ主催でハンブルグにて、1982年に第3回大会がエールフランス主催でパリにて開催された後、第4回大会が1983年11月にJAL/ANA共催で東京にて開催されることになった。インターライン大会は、技術レベルは総じてさほど高くはないが、いわば民間レベルのミニオリンピックのような国際大会で、競技力を競うものの、友好親善の色彩が強く、とにかく参加して大変楽しい大会である。毎年どこかのエアラインが持ち回りで主催する必要があるが、参加し続ける限りは、いつかは自分達が主催しなければならない代物である。日本は参加国の中でも大国と一つとみなされていたため、回りからの強い要請もあって、第4回大会を引き受けることになった。
第4回大会は、1983年11月21日から27日まで東京で開催されたが、16か国から17の航空会社が参加し、チーム数は、男子16チーム、女子12チーム、参加人数は、全部で約250名にも達した。大会は、その後第19回大会(2001年)まで続いたが、参加国数、人数とも、第4回大会が最大規模であった。
<参加航空会社(アルファベット順) 17社>
バハマ航空 中国民航 キャセイ・パシフィック航空 大韓航空
ルフトハンザドイツ航空 マレーシア航空 カンタス航空 サベナ・ベルギー航空
スカンジナヴィア航空 シンガポール航空 スイス航空 全日空 日本航空
第4回大会の特徴は、まず中国が初めて参加したこと、また、当時中国と韓国は国交がなく、スポーツ交流もほとんどなかったため、東京での両国の交流が注目されたことである。男子は、準決勝が中国民航 対 シンガポール航空、ルフトハンザ 対 日本航空の組合せとなったが、それぞれ、中国民航と日本航空が勝ち、決勝で対決。しかし、実力の差が歴然で、中国民航が4対0で勝利し、初参加で初優勝を遂げた。一方、女子は、中国民航と大韓航空の決勝戦となったが、ナショナルチームメンバーを擁する大韓航空が、4対1で勝利し、大会4連覇を果たした。この女子の決勝戦は、国交のない両国の対決となったため、注目を浴びた。中国の選手は、全中国から集められ、中国遠征時に対戦したメンバーであったが、大韓航空は、韓国ナショナルリーグ、第3位の強豪チームで、韓国のトップ選手が含まれていたので、中国といえども、かなわなかった。男子は、中国遠征時のメンバーの他に、もっと強い選手が1名補強されていたので、なんなく優勝することができたが、女子は同じメンバーで臨んだことが敗因であったともいえる。
ちなみに、1991年に千葉で開かれた世界選手権に韓国と北朝鮮が初めて統一チームとして参加したが、その時の南北統一チームの女子コ−チは、この時の大韓航空のコーチであった。また、大韓航空のエース、李鎮淑選手は、大会後、ルフトハンザのトップ選手と結婚し、ドイツのブンデスリーガのフランクフルトチームの選手として活躍し、1985年にはフランクフルトチームを優勝に導いたほどの実力の持ち主である。一方、フィージーからのエア・パシフィックの選手達は温泉卓球レベルなので、ナショナルプレーヤーレベルと温泉卓球レベルの選手が混在しているという何ともユニークな大会がこのWOFIAの魅力であるともいえる。
WOFIAの魅力は、
1 トップ選手ではなく、趣味レベルでの卓球愛好家同士が国際交流をすることができる
2 大会なので勝敗は競うものの、親善も大きな目的なので、年一回再会して親しい交流ができる。
3 開会式や閉会式のセレモニーを楽しむことができる。
4 歓迎パーティ、フェアウェルパーティに必ずオールナイトダンスパーティもあるので、さらに交流を深めることがで きる。
5 フェアウェルパーティでは、各社ともその国独自の歌や踊りやコント等の出し物・パフォーマンスを披露するショー があり、楽しむことができる。
6 観光が手配してもらえる等
WOFIAは参加するかぎりは楽しさ満載で、一度参加したら病みつきになるほど魅力あふれるスポーツ大会といえる。現にWOFIAで親しくなって国際結婚したカップルが何組も出ている。
大会セレモニーでは、毎回主催側が工夫を凝らしたショーを企画してくれるので、参加する楽しみが増す。ちなみに、東京大会での開会式は、元世界チャンピオンによる模範試合・挑戦試合に和服を着たキャビンアテンダントによる琴の演奏を行った。第17回の広州大会では、広州雑技団によるサーカスが披露された。第19回の2回目の東京大会では、エアロビクスダンス、獅子舞、津軽三味線の演奏等を行った。
WOFIA は、まさに参加して楽しいイベントであるが、いざ大会を主催するとなると話は全く別で、想像を絶するほど莫大なワークロードがかかることは必至で、仕事後のアフターファイブで片手間にできるような代物ではない。従って、主催を決意するのも大変であったが、正式に開催が決まってから、準備期間は約2年しかなかったので、現実的には限られた人数で莫大な量の作業をこなす必要があった。大会の規模こそ小さいが、オリンピックを主催するのと同じような項目の作業を自分達だけでやらなければならないのである。やらなければならない項目をピックアップしてみるとその大変さが容易に想像つく。
1 参加社、参加者の登録
2 開催場所(体育館、宿泊ホテル)の確保
3 ホテルと体育館との輸送手段の確保
4 食事の手配(朝、昼、晩)
5 組織委員会の形成
6 開会式・閉会式の企画(音楽、行進、プラカード、出し物、式進行)
7 試合の運営企画及び当日の進行(組み合せ、英語による進行)
8 大会プログラムの作成
9 観光の手配(観光バス、観光場所)
10 ウェルカム・パーティ(出し物を含む)の企画
11 フェアウェル・パーティ(ダンスタイムを含む)の企画
12 マネジャー会議の運営
13 協賛スポンサーの確保
14 卓球メーカーへの協力要請
15 IDカードの作製
16 参加記念品の作製
17 トロフィーの作製
18 大会資金の確保、予算管理
19 英語のできるスタッフの確保
20 マスコミへの広報活動
21 自社チームの選手編成
22 試合用の交換記念品の手配
23 初参加の中国民航に対する特別ケア(ビザ身元保証、特別歓迎パーティの手配)
次に、項目ごとにどんな作業を行ったかを簡単に記してみる。
1 参加社、参加者の登録
組合せ、参加者名簿を作る必要性から、正確な最終的な人数と名前が必要だが、選手プラス家族等の応援者が増えたり、減ったり、200人を超す名簿の管理は大変な作業であった。
正確な名前のスペリングを確認し、プログラムに掲載する必要があるため、ぎりぎりまで確認作業に追われた。大会前数週間は、インターライン各社からのメッセージ処理に追われ、日常業務ができないほどであった。
2 開催場所(体育館、宿泊ホテル)の確保
体育館は、羽田にある健保体育館とし、ホテルは、できるだけ安く抑える必要性から品川にある品川プリンスホテル本館(今のイ−ストタワー)を利用することにした。値段交渉、人数に見合う部屋数の確保と朝食・夕食の手配及び2回のパーティの手配等当時のホテル担当者に大変お世話になった。人数の増減により、手配する部屋の数も変わるため、ぎりぎりまで調整が必要であった。
3 ホテルと体育館との輸送手段の確保
毎日、朝と晩に大型バスを3台貸切ることとし、品川−羽田間の輸送を確保した。まず、バス会社の選定、また、決まった後は、どのように運行を手配していくか、バス会社との綿密な調整が必要であった。バスの運行は、品川区に本社がある帝産観光バスにお願いした。
4 食事の手配(朝、昼、晩)
朝食と夕食は、ホテルの食堂、昼食は体育館のあるビルの生協食堂で行うこととし、メニュー、値段等の詳細を詰めた。夕食の内、2回は、ウェルカムパーティとフェアウェルパーティの対応となるので、別個にパーティ企画運営の一環として対応。昼食は、外人向けの特別メニューを生協と協議の上、用意することにした。
5 組織委員会の形成
大会組織委員会を作り、会長以下、役員、スタッフを任命して、業務分担を図ることとしたが、JAL/ANAの2社の共催であるため、両社の役割分担を明確化する必要性があった。メインの分担は、基本的にJALが担当し、ANAは開会式の出し物、閉会式の運営を主に担当してもらった。組織委員会会長は、JAL卓球部の前会長(JAL役員)、副会長は、JAL/ANA両卓球部の部長が就任し、自分はManagerとして、運営の総括を受け持った。
6 開会式・閉会式の企画(音楽、行進、プラカード、出し物、式進行)
開会式の企画は、どういう形式で式を進行するかという基本プランからはじまって、入場行進のやり方、どんな音楽をかけるか、参加社を表すプラカードも作製する必要があるが、式では、それを誰に持たせるか、開会式を盛り上げる出し物は何にするか等開会式ひとつとっても、その進行のシナリオを作る作業は大変なものであった。担当者会議を何回も重ねたが、アイデアがいろいろ沸いてくるので、詰めていく作業は楽しみでもあった。
入場行進の音楽はxxとし、プラカード持ちは、1社に一人ずつ、ユニフォーム着用のJAL及びANAの客室乗務員17名にお手伝い願った。両社とも業務として乗務員を派遣することになるので、派遣の申請手続きも必要であった。ライバル両社の乗務員が交互に仲良く並んでいるシーンは温かい何ともいえない雰囲気を醸し出していた。プラカード自体、すべてスタッフが手作りで作製したものである。大会会長挨拶、来賓挨拶、入場行進、大会旗掲揚、選手宣誓と分単位でスケジュールを考え、実行していくのは相当緊張感を覚えた。
開会式の進行は言うまでもなく英語で行うことになるため、当社ホノルル支店から応援をもらったバイリンガルのスタッフにお願いした、(後述)
開会式での出し物としては、タマス(バタフライ)社に協力してもらい、元世界選手権のチャンピオンである長谷川信彦(故人)選手と伊藤繁雄選手による模範試合とWOFIAメンバーと両選手との挑戦試合を実施した。単なる模範試合ではあるが、試合前に練習をさせてほしいとの要請があり、ANAの体育館を練習場として使ってもらった。模範試合は、さすが世界チャンピオンだけあって、参加者から驚嘆の声がもれた。模範試合に次いで、WOFIAの参加メンバーからの挑戦試合を行なった。挑戦者は、男子は中国民航とルフトハンザのNo.1と女子は大韓航空のNO.1とNo.2の選手であったが、やはり歯が立たなかった。挑戦試合終了後には、和服を着たANAの客室乗務員4人が琴の演奏を披露した。4人は当日が初顔合わせであったとのことであったが、素晴らしい琴の演奏に参加者は魅了されていた。
7 試合の運営企画及び当日の進行(組み合せ、英語による進行)
試合は、男女とも2組に分けて、男子は2組とも、8チームによるリーグ戦、女子は、2組とも6チームによるリーグ戦を行い、それぞれの上位1位と2位が準決勝で当たり、その勝者同士で決勝を行うという方式をとった。一つの試合は、男子は5シングルス、2ダブルス、女子は3シングルス、2ダブルスで構成された。試合の進行はある程度慣れていることと、組み合わせを事前に決め、試合時間もプログラム上にすべて掲載してあるので、さしたる問題は発生しなかったが、会場での進行案内はすべて英語で行う必要があるので、アナウンス等はすべてバイリンガルスタッフにお願いした。
8 大会プログラムの作成
大会プログラムは、大会の顔になる重要なもので、大会に必要な諸情報を盛り込む必要があるため、相当な手間と時間をかけた。まずは、大会ロゴの作成と表紙のデザインの決定。財政上、プロにお願いすることができないため、自分達で作りあげた。印刷及び製本は、日航商事に依頼したが、原稿はすべて手作りで用意。組織委員会の役員や主催社のプレイヤーは、写真付で紹介することにしたが、お金をかけられないため、当時まだ出始めたばかりのデジカメで写真を撮り掲載した。当時のデジカメは、まだ画素数が低く、鮮明な写真というわけにはいかなかった。参加社の全選手・役員・サポーター名もプログラムに掲載することにしたが、メンバーの変更も少なくなく、ぎりぎりまで原稿の修正を余儀なくされた。プログラムはすべて英語表記であるため、それなりの英語能力も必要とした。プログラムには、サイン交換欄も設け、簡単な日本語会話集も掲載した。また、大会に協賛してくれた企業については、すべてプログラム上に広告を掲載することにした。少ない予算で大会を運営するために、いろいろな形で協賛してもらえる企業を探すことは大事なことであった。(13/14項参照)
9 観光の手配(観光バス、観光場所)
大会の中日の1日は観光用に確保し、観光バスを3台手配し、参加者に対し、東京観光ツアーを実施した。品川=羽田間の輸送を担当するバス会社に観光用のバス手配もお願いした。約160人が参加し、皇居、明治神宮、浅草等を案内した。各バスには、英語のガイドを手配し、また、主催側の担当者をバス毎に2-3人配備し、スムーズな東京観光を行うことができた。
10 ウェルカム・パーティ(出し物を含む)の企画
宿泊初日の夜に、ウェルカム・パーティを開催するにあたって、会場の手配、テーブル配置、料理の手配、看板の案内、歓迎イベントの企画等をホテルの担当者と綿密な打ち合わせが必要であった。250名を超す人数なので、会場の確保・メニューの選定等それなりに大変であった。パーティ進行の段取り手配、司会者との綿密な打ち合わせも必要であった。歓迎イベントは?
11 フェアウェル・パーティ(ダンスタイムを含む)の企画
大会の最終日に、フェアウェル・パーティを開催するが、これについても、会場手配、テーブル配置、料理の手配、進行段取り等詳細な打ち合わせが必要であった。パーティでは、すべての参加社が独自の出し物を披露するイベントがあるため、練習場所の確保、必要品の手配等各社との打ち合わせも必要であった。出し物の多くは、歌、ダンス、コント、ゲーム等であるが、どれも楽しいものばかりで、皆期待しているビッグイベントになっている。出し物全体の進行は当然ながら、自分のチームについても、主催社として恥ずかしくない出し物を用意する必要があったが、忙しさに紛れて、出し物の内容については十分な時間をかけることができなかった感もあった。パーティの後半は、ダンスタイムに移行し、皆、夜遅くまでダンスをしながら、交流を深めるのである。他の都市での大会では、このダンスタイムはオールナイトというところも多いが、東京の場合、ホテルの事情から夜中の1時頃には終了することにした。ダンスタイムのDJをどうするか。どんな曲をかけるか、すべて事前に手配する必要があったが、 DJは知り合いのセミプロにお願いした。ダンスタイムは,男女交流の場でもあるため、国や会社を飛び越えて、親しく交流するシーンも目立った。現に、WOFIAで知り合い、国際結婚したカップルも何組か出ている。
12 マネジャー会議の運営
大会期間中、各社のマネジャーを集めてのマネジャー会議を何回か実施し、各社に大会運営に関する情報を流した。また、その内1回は、今後のWOFIA大会をどうするか、次回の主催会社をどこに決定するか等重要事項を決定する会議となった。会議には、16カ国17社が参加するという大きな会議でもあるため、バイリンガルスタッフに会議の進行役をお願いした。
13 協賛スポンサーの確保
会社からの金銭的援助は微々たるものなので、大会の運営費は、参加者からの参加費が中心となる。かかる経費を最小限にとどめるため、協賛スポンサーを探し、様々な支援をお願いした。協賛してもらった企業については、その広告を大会プログラムに掲載した。協賛社は、バタフライ(世界チャンピオンの模範試合)、ニッタク(試合ボールの提供、生協への卓球用品販売の出店)、三英(フェンスの貸与)、ヤクルト(ドリンクの無償提供)、西武トラベル(観光手配)、JAL/ANA(スタッフ、施設の提供)、日航商事、生協等。多面的にスポンサー探しをするほどの時間的余裕もなく、スポンサー探しには苦労した。
14 卓球メーカーへの協力要請
スポンサーの中でも卓球メーカーについては、バタフライとニッタク両社の全面的支援を受けた。ともに、事前のコネクションもないため、日本卓球協会に相談を持ちかけ、協会を通して、2社の担当者を紹介してもらった。バタフライについては、国際担当の大曾根氏を通じ、元世界チャンピオンの長谷川信彦(故人)氏と伊藤繁雄氏を派遣してもらうという形で,協力を得ることができた。これにより、開会式後のパフォーマンスとして、二人による模範演技とWOFIAメンバーからの挑戦試合を実施するという超目玉の企画が実現した。ニッタクについては、国際担当の嶋野氏と広瀬氏を通じ、様々な協力を得た。まず、試合ボールを全て無償で提供してもらった。また、卓球用品を格安で販売してくれることになり、大会期間中、生協の売店に卓球用品コーナーを設けてもらい、各国選手の人気を得た。また、卓球コートを仕切るフェンスについて、全くそのような備品を持っていなかったが、ニッタクを通じ、同じ年に千葉で開かれた世界選手権に使用したフェンスを無償で借用することができた。かかった費用は、倉庫と体育館との間の輸送費だけであった。また、大会にあたって、ユニフォームを新調したが、ニッタクにて格安で作ってもらった。
15 IDカード及びゼッケンの作製
大会の参加者は、選手であろうと役員であろうとサポーターであろうと全員IDカードの携帯が必要となる。IDカードは、参加者であることの証明であり、様々な会場への立ち入り許可証となる。全員に交付する必要があるため、エアライン名、タイトル(選手、役員、サポーター等)、氏名をプリントした約250枚のIDカードを作製した。個人名をプリントすることになるため、ミスプリントのないよう慎重な作業が必要であった。IDカードを入れるケース及び紐の調達も必要であった。また、選手については、ゼッケンを用意し、試合はユニフォームにゼッケンを付けてもらった。大会プログラム上に、前もって選手毎にゼッケンの番号を付した。
16 参加記念品の作製
参加者全員に参加賞を交付するのが習慣であるが、東京大会では、個人名をプリントしたプラスチック製のバゲッジタグを参加賞として用意した。個人名が彫られているため、ミスプリントは許されない状況にあった。予想通り、何人かはミスプリントが発生し、後日正しい物に交換するという余計な作業が発生してしまった。実際にもらった参加者からは世界に一つしかないオリジナル製品となるため、評判はよかったが、個人名を入れるような参加賞は、トラブルの元であるので、個人を特定しないごく普通の参加賞にすべきであったと反省される。
17 トロフィーの作製
男女の優勝、準優勝及びベスト・パフォーマンス賞(男女1名ずつ)のトロフィーを用意した。予算内でどんな種類のトロフィーにするか、また、銘板を用意する必要から、作製の担当者を決め、豪華なトロフィーを用意した。
18 大会資金の確保、予算管理
大会の運営にあたって、最重要項目の一つが大会資金の確保とその予算管理であった。大会規模を想定し、大会への補助金を前提に、運営に必要な経費を算出し、その差額を参加者から、パッケージ・ディール(参加費)として徴収するという予算策定方法を取った。過去の大会では、この参加費はかなり低く押えられていたが、東京での開催の場合、ホテル代や物価が高いこともあって、主催を引き受ける時点から、参加費はかなり高くなる恐れがあるがそれでもいいかということを皆に了解を取った。そうは言っても、あまりに高くすれば、参加人数も減ってしまうので、参加費をできるだけ低く押えるために、いかに収入を確保し、経費を節約することが最重要課題であった。最終的には、参加費は、ホテルのツインベースを基準に、一人当たり8万円とした。参加費には、6泊3食付ホテル代、パーティ代、輸送費、観光代等すべてを含んでいる。参加費の提示はほぼ1年前の大会案内時には必要になるので、かなり前広に予算を策定する必要があり、その作業はなかなか大変であった。経理担当者を指名し、予算を一括管理したが、参加者が250人(海外から200人)にもなると、参加費だけでも2000万円近くの高額になるため、組織的に本格的取り組みが必要であった。
19 英語のできるスタッフの確保
大会運営の基本言語は、共通語である英語であり、大会プログラム、会議の運営、パーティの進行、試合の進行を始め、すべての運営は基本的に英語を使う必要がある。従って、大会の運営にあたって、英語のできるスタッフの確保は大変であった。組織委員会のメンバーは、JAL/ANAともに、英語ができるスタッフは限られていて、我々だけでは対処不能と考え、当社ホノルル支店の卓球部のメンバーでバイリンガルのスタッフの応援を求めた。当時は、ホノルル支店にも卓球部があって、日本地区の卓球部との親善試合も定期的に行われていたが、本大会の開催にあたって、彼らの方からお手伝いしてもよいとの申し出があり、出張に近い形で、大会期間中、1名のヘルプを得ることができたのは幸いであった。当時、彼は支店の広報担当でもあったので、式典等での挨拶にも慣れており、開会式、閉会式、ウェルカムパーティ、フェアウェルパーティ、マネジャー会議から試合の進行まですべてにおいて、彼の助けを借りた。
20 マスコミへの広報活動
世界各国のエアラインスタッフが一堂に会し、親善の卓球大会を行うというユニークな大会であること、中国と韓国の間に国交がない時であったので、両国のスポーツ交流は画期的であること等話題性もあったので、各マスコミに本大会が開催されるというプレスレリースを行った。 特に、中国と韓国のスポーツ交流は、当時、ナショナルチームレベルでバスケットボールとソフトボールで2回あっただけで、民間レベルでのスポーツ交流は初めてであったと記憶する。実際、両チームともセキュリティスタッフが同行していた。女子は、中国と韓国の決勝対決が実現したこともあり、一部のスポーツ紙に大会結果が掲載された。両チームの選手が握手を交わし、肩を並べて交流するシーンは、大変、感動的であった。
21 自社チームの選手編成
大会運営にほとんどマンパワーを取られたが、主催社の方も大会でいい成績をあげるために、選手を選抜し、練習に励んでもらう必要もあった。選手自身も自分の練習だけでなく、開催にあたって、何らかの業務を担当していたので、選手への負担も相当厳しかったものと思われる。選手は、男子7名 女子6名として、自分がTeam
Managerを務めた。
22 試合用の交換記念品の手配
試合は、リーグ戦形式で、男子は最低7試合,女子は最低5試合行うことになるが、試合毎に両チームの間で記念品の交換を行うのが慣例となっている。各社とも工夫を凝らした記念品を用意しているが、自分達のチームも、対戦相手の人数分の記念品を用意しておく必要がある。基本的には、会社のロゴマークの入ったキブアウェイを用意したが、男女別に内容を変える工夫もした。決勝トーナメントまで行くと仮定し、予備も含め、相当数の記念品を用意したが、値段的にもばかにならないので、安くても気に入ってもらえそうなアイテムを選定した。
23 初参加の中国民航に対する特別ケア(ビザ身元保証、特別歓迎パーティの手配)
今回の大会は、250人という大規模な大会になったことで、運営上の負荷も大きかったが、その他に、中国(中国民航)が初参加したことによる特別ケアも大変であった。同じ年の5月にJAL代表チームが中国の北京、杭州、上海に遠征し、中国民航チームと親善試合を行なったが、その交流を踏まえて、嬉しいことに中国民航が初めて本大会に参加した。卓球といえば中国というほど世界的にも有名な国からの参加を得たことは、組織委員会としての快挙ともいえる。初めての受け入れなので、新しいことばかりで、それなりに苦労したが、いろいろ勉強できたことも事実である。中国チームは、団長以下14名が参加したが、通訳(兼)マネジャーの女性以外は全員、国外に出るのは初めてで、新規にパスポートを取得したとのことであった。
中国人は日本入国に際し、ビザが必要なので、ビザ申請のための身元保証の手続きも行った。初めての経験であったが、社内の関係者に身元保証書の書き方を教わり、外務省にも何回が足を運んだ。要するに日本での行動スケジュールを明確にして、滞在にかかる費用は全て保証するという文書を提出しないと彼等のビザは発行されないのである。
また、1982年が日中国交正常化10周年という節目の時で、エアライン間でも、1982年から83年にかけて記念行事がいろいろ行われていた。1983年には、当時の高木社長ご夫妻が李樹藩中国民航社長(兼)航空局長の招待を受けて、中国各地を旅行したが、その時通訳として、同行していた民航社長秘書の女性が、今回の代表団のマネジャーであったことから、社長夫人から、お世話になったお礼として、是非とも代表団の歓迎パーティを行いたいという強い要望があった。他国のチームの受け入れで大変な時期であったが、民航代表団に対してのみ特別に、高輪プリンスホテルにて社長夫人主催歓迎パーティを行った。民航日本支社のスタッフも加わり、この大会の機会に日中の友好交流がいっそう深められたともいえる。社長夫人は、大会期間中、試合を見に体育館にも応援に来られた。この通訳の女性は現在日本に住んでおり、今でも交流が続いている。
(その後の状況)
第4回大会以降、毎年、世界各地で各社の持ち回りで大会が開催されたが、圧巻は1996年に中国南方航空(1988年に中国民航が分割・民営化されたが、WOFIA大会は、中国南方航空に引き継がれた)の主催により広州近くの中山市で開催された第17回大会であった。卓球の本場中国での初めての開催とあって、会社の総力をあげての大会運営が行われた。開会式には、有名な広州雑技団のパフォーマンスも披露され、地元の学生が招待されたこともあり、観客数は、4000人にも達した。
持ち回り開催で、主要な航空会社は2度目の開催を行う時期が巡ってきて、1998年の第19回大会を日本航空の主催により10月10〜16日に東京で開催することになった。大会規定に従い、主催は日本航空単独としたが、日本からは日本エアシステムも参加したので、全面的協力を得て共同で実施した。 第4回の東京大会をピークに参加人数も減少傾向にあったが、その流れに沿って、第19囘大会は、11社、約90人の参加というこじんまりとした大会となった。また、2度目の大会運営で、ある程度慣れていたことと人数規模が小さかったことで、第4回大会ほどの大変さはなかったものの、基本的には、上記に述べた作業をすべて行なう必要があるので、それなりの苦労はあった。
会場は、第4回大会同様、羽田にある健保体育館で、ホテルは、羽田東急ホテルを利用したので、ホテルと会場間は徒歩での移動となった。朝と夜はホテルで食事を取り、昼は、体育館にある生協で特別食を手配した。参加人数が少ない分、試合の運営も極めてスムーズであった。大会プログラム表紙の図案は、知人にお願いし、相撲の土俵の上で、関取と卓球をするというユニークなデザインとなった。バイリンガルスタッフの応援を求めなかったので、すべての運営を自分たちだけで行なった。 開会式のパフォーマンスは、獅子舞及びJALのエアロビクスチーム「JALJETS」の踊りと津軽三味線の演奏を披露し、プラカード持ちは、獅子舞を演じた子供たちにお願いした。ウェルカムパーティでは、日本舞踊も披露した。今回は、大会の中日に行う観光は実施しなかった。人数が少ない分、和気あいあいとした雰囲気で大会が実施された。
(あとがき)
WOFIAインターライン卓球大会は、その後も世界各地で開催され、2001年の第22回バンクーバー大会まで開催されたが、2002年に予定していたデルタ航空主催によるアメリカでの大会が2001年9月11日の同時多発テロの影響で中止となり。その後、世界の各航空会社が不況に見舞われたこともあり、復活はならなかった。現時点でも世界の航空会社を取り巻く環境は依然厳しいものがあり、大会の復活は夢のまた夢といえる。
第4回インターライン卓球大会のアルバム(YouTube)
第19回インターライン卓球大会のアルバム(YouTube)
第4回大会プログラム 第19囘大会プログラム
WOFIAインターライン卓球大会の開催状況は下記の通り。
回数 |
開催年 |
主催会社 |
場所 |
男子優勝 |
女子優勝 |
備考 |
||
1 |
1980 |
マレーシア航空 |
ゲンティンハイランド |
SQ |
KE |
|
||
2 |
1981 |
ルフトハンザ・ドイツ航空 |
ハンブルグ |
LH |
KE |
|
||
3 |
1982 |
エールフランス |
パリ |
LH |
KE |
|
||
4 |
1983 |
日本航空・全日空 |
東京 |
CA |
KE |
17社/250人 中国初参加 |
||
5 |
1984 |
スイス航空 |
チューリッヒ |
CA |
CA |
|
||
6 |
1985 |
大韓航空 |
ソウル |
SQ |
KE |
|
||
7 |
1986 |
スカンジナビア航空 |
コペンハーゲン |
CA |
CA |
|
||
8 |
1987 |
シンガポール航空 |
シンガポール |
SQ |
KE |
|
||
9 |
1988 |
キャセイパシフィック航空 |
香港 |
SQ |
KE |
|
||
10 |
1989 |
ニュージーランド航空 |
オークランド |
SQ |
JL |
|
||
11 |
1990 |
アイルランド航空 |
ダブリン |
SQ |
TG |
|||
12 |
1991 |
サベナベルギー航空 |
ブリュッセル |
CI |
CX |
|
||
13 |
1992 |
マレーシア航空 |
クアラルンプール |
CZ |
CZ |
|
||
14 |
1993 |
タイ国際航空 |
パタヤ |
CZ |
CZ |
|
||
15 |
1994 |
エア・パシフィック |
ナンディ |
CZ |
CZ |
|
||
16 |
1995 |
ルフトハンザ・ドイツ航空 |
ハンブルグ |
CZ |
CZ |
|
||
17 |
1996 |
中国南方航空 |
中山 |
CZ |
CZ |
|
||
18 |
1997 |
エールフランス |
パリ |
CZ |
CZ |
|||
19 |
1998 |
日本航空 |
東京 |
CZ |
CZ |
11社/90人 |
||
20 |
1999 |
スイス航空 |
チューリッヒ |
CZ |
CZ |
|
||
21 |
2000 |
インディアン航空 |
ゴア |
CZ |
CZ |
|||
22 |
2001 |
エア・カナダ |
バンクーバー |
CZ |
CZ |
7社/54人 最終回 |
||
*WOFIA: Wings of Friendship Inter-Airline Table Tennis Tournament |
||||||||
CA: 中国民航 |
CZ: 中国南方航空 |
KE 大韓航空 CI 中華航空 |
||||||
|